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〒399-8303 長野県安曇野市穂高5095-1
荻原守衛(碌山)略年譜
明治12年 12月1日、 長野県南安曇郡東穂高村矢原の農家荻原勘六・りょうの五男に生まれる。 本名:守衛(もりえ)。 明治26年14才 東穂高高等小学校を卒業、家業を手伝う。 明治27年 15才 11月28日、東穂高禁酒会に入会し、相馬愛蔵・井口喜源治らの強い影響を受け、キリスト教に志向する。 明治29年 17才 5月から心臓を病む。夜学会に入会する。 明治30年 18才 相馬良(黒光)の家で初めて油絵(長尾杢太郎作《亀戸風景》)を見る。 明治31年 19才 機業家になろうとして出奔し、桐生方面へ向ったが、上田から連れ戻される。 11月、研成義塾が創立され、守衛も参加して盛んに読書する。 12月、禁酒会の幹事に選ばれる。
明治32年 20才 2月、初めて井口喜源治らと上京。巌本善治を訪問し、植村正久らの説教を聞く。 10月、画家になろうと志し巌本善治氏を頼って上京。明治女学校の校地内に住む。画塾不同舎に入り、小山正太郎に学ぶ。 (右は不同舎時代の鉛筆素描) 明治33年 21才 3月、明治女学校校地内の林の中に守衛専用の小舎を建て、深山軒と名付ける。 7月、井口喜源治上京、共に内村鑑三の夏期講談会に出席。 終了後、井口喜源治と共に富士登山をし、一時帰省する。 明治34年 22才 渡米を決意して洗礼を受け、3月横浜を出帆しニューヨークへ直行する。 9月、フェアチャイルド家の学僕となる。 10月、アート・スチューデンツ・リーグに入学する。 明治35年 23才 孤独と郷愁に悩む。チェイス・スクールに転校し、ロバート・ヘンライに学ぶ。 戸張狐雁を知る。この頃、ウォルター・パッチを知る。 明治36年 24才 10月、渡仏。パリで中村不折に会う。脱竜窟と自ら名づけた屋根裏の小部屋に住み、アカデミー・ジュリアンに通学する。 明治37年 25才 サロン・ナショナル・デ・ボザールでロダンの《考える人》を見て深く感動、彫刻への志向強まる。帰米し、アート・スチューデンツ・リーグに入り彫刻のためのデッサンをする。 明治38年 26才 人道的立場から日露戦争を批判する。このころ柳敬助、白滝幾之助を知る。 明治39年 27才 2月、高村光太郎がニューヨークに来る。柳敬助と連れだって光太郎を訪ねる。 9月、再渡仏。オランダにてパッチと再会後パリに着き、アカデミー・ジュリアンの彫刻部にはいる。五来欣造・斎藤与里・本多功らと親しくなる。碌山の号を用いはじめる。 (前列右から2人目、ブルーズを着ているのが守衛) 明治40年 28才 1月4日、五来のはからいでパリ郊外に移る。PAUL-LOUSI COUCHOUD が1月16日付の紹介状で、守衛がロダンに面会できるように仲介している。 7月、静養のためロンドンに旅行し、滞在中の光太郎と美術館めぐりをする。 パリに戻り、ウォルター・パッチとロダンを訪ねる。ジュリアンの校内コンクールでたびたび受賞。 《女の胴》《坑夫》などを制作。ブールデルに会う。 帰国のため年末パリを出発、帰路イタリア、ギリシャ、エジプトに立ち寄り、おもに古美術を見る。 明治41年 29才 4月に京都・奈良を見学する。太平洋画会に属し、新宿にアトリエを建てる。戸張孤雁と再び親交深まる。中原悌二郎らを知る。相馬良(黒光)との精神的愛染に苦しむ。 第2回文展に《女の胴》《坑夫》《文覚》を出品する。《文覚》のみ入選。 明治42年 30才 《デスペア》《北條虎吉像》《戸張孤雁像》《香爐》《労働者》《爺》《小児の首》《宮内氏像》などを制作。第3回文展に《北條虎吉像》《労働者》を出品する。 明治43年 《銀盤》《女》を制作する。柳敬助の画室を設計監督する。4月20日の夜、新宿中村屋で吐血。22日朝、満30歳5ヶ月で永眠する。 生家の墓地に埋葬される。 第4回文展に《女》が出品され、文部省に買上げられる。 ロンドンで開かれた日英博覧会に《銅像》(宮内氏像)が出品される。 没後 明治44年 『彫刻真髄』が博文舘から出版される。 新宿中村屋裏にアトリエを移築し碌山館と称して作品を公開する。 中村屋における守衛3回忌(大正2年)参加者(写真) 大正5年 次兄・本十、黒光、孤雁らのはからいで作品その他の資料を生家に移す。 大正6年 生家(写真)に離れ屋を新築、7月1日から再び碌山館と称して作品を一般に公開。 昭和33年 財団法人碌山美術館が設立。